【マインド・戦略】おそれ多いですけどお釈迦様にモノ申します

  1. 空想の世界
  2. 幸福・因果論 への注文
  3. 舞台ウラ
  4. 余談
  5. 追記1
  6. 追記2
  7. 追記3
  8. 追記4
    1. 関連記事
  9. 追記5
    1. 魔の正体って

空想の世界

しばし

空想の世界にいざなう
コトにします(‘;’)



🔶🔶🔶

戦時中

ある島での局地戦が舞台




片足を負傷した
男性兵士Aは

前線を離脱し
野戦病院にいました



体育館のような場所に
負傷者が
所狭しとゴロゴロ




前線復帰を免れたAは

本土に向けた船舶輸送の
順番待ちの状態



何日も待たされ

よーやく
乗船の日が決まります




乗船予定の当日



ベッドに横たわっていたAは


あらかじめ配布された
整理番号札を握りしめ

乗船時間を待っていると



重傷の女の子が館内に運び込まれ

救急班員が

誰かぁ
女の子と乗船を

代わってくれないかー!

と声を張り上げてます



周囲が騒然となる中

救急班の近くの
ヒトごみの中から

手が挙がる
と同時に

「●●番」だけど
オレが代わってあげても

イイよ

との申出があり




輸送班員が

「●●番」だな
ありがとう!

と告げて

そのまま
女の子を運び出し

付き添っていた
女の子の両親が

代わってくれたヒトに対し

何度も
アタマを下げてます




少し離れたところにいたAは


譲ってあげたヒトの整理番号を
聞き取るコトができなかったものの

大したモノだ

と感心しつつ



集合時間が近づいたため

集合場所に赴(オモム)き

輸送係員に対し
整理番号札をみせたところ



同係員から

さっきこの番号の分として
女の子が乗ったよ
交代したんだろ

と告げられ



一瞬
戸惑いつつ

すかさず
コトを察し

あぁ
そうだそうだ
そうだった

と応じて

そのまま
元のベッドに戻るコトにし



その途中
はり出された掲示板を見て


次の輸送予定日が
1か月先であるコトを
確認しました





ところが

数日して

ますます
戦況が悪化する中



館内放送で

敵軍の上陸が
迫っている

動けるヒトは
前線に加わり

玉砕覚悟で

徹底抗戦を!

動けないヒトには
自決用の手りゅう弾を
配布する

旨が再確認されます




放送を聞き終えたAは

ポケットから
1枚の写真を取り出し


しばらく
じーっと見つめ

かすかに
微笑(ほほえ)んだ上


再び
写真をしまい込みます



写真には

妻と

譲ってあげた女の子と
同年代くらいの一人娘が
写っていました




数日後

前に会った輸送係員が
Aのところに
手りゅう弾を持ってきます



Aは

まだ動ける

兵士らしく
前線で
戦わせてくれ

と頼むと



同係員は

うーん……
分かった!

配置命令が出たら
オレが
迎えに来るから

と告げて
帰ろうとすると


Aが

あーっ
ちょっと待って

と告げながら
同係員にゆっくり近づき


その耳元で

手りゅう弾は
もらっておくよ

一斉突撃に

参加できないとき
役に立つと思うから

とささやくと




同係員が

苦笑いしつつ
Aの耳元で

本来
前線参加者には
与えないんだぞ

と言いながら
そーっと
手りゅう弾をAに渡し


帰っていきました


幸福・因果論
への注文

Aに代わって
手と声をあげたヒトに対し

天誅(てんちゅう)を
与えたまえ

とは言いません


せ・め・て

Aのように
陰徳(いんとく)に及んでいる
ヒトが


しーっかり

報われる
世の中であってほしい

と願ってます
(。-_-。)




といっても


何がなんでも
今生(こんじょう)での成就
を求めるモノではありません
(-_-)



善根を
きーっちり
来世に生かせる
ような仕組み

でないと



ただでさえ

道徳・人徳が軽視されがちな
世の中なのに


時の経過とともに

ますます

」がのさばり・はびこる状況に
つながりかねません



ですから

善根の「因」が

厳然と

来世に向けて
果報となるような仕組みが

人生戦略上

欠かせない
と捉えてます
(´-ω-`)



生身のヒトが発する
」と「
」と「
などから離れて


超然とし過ぎる概念的な

」のための「

を唱えたところで



平々凡々に生きる
まじめだけが取り柄のヒトは
救われなかったりします(´ω`)



せっかくの機会なので

言わせてください



執着するな
こだわるな

その言わんとする趣意は

それなりに
分かってるつもりですけど



実社会で
現に闘ってるヒトからすると


世俗から距離を置いた達観者の

特権(タワゴト)に
過ぎないんじゃないの

と映ったり




はたまた

ごくフツーの
「いい」ヒトを

救えないような「理」なんか

意味ある?

との声が
聞こえてきそう……
(-ω-)/



「色即是空
(しきそくぜくう)」

すなわーち
全てが実体のない「空」であり


因果律・輪廻転生から解放され
煩悩の消え失せる境地が
「悟り」である




この教えの深遠さは

凡夫(ぼんぷ)の自分でも
何となーく
感じ取れるものの



申し訳ないですけど

率直に言って
厳(おごそ)か過ぎて

生きてる間に
煩悩を消滅させるような境地

つまーり
悟りを開いたヒト(ブッダ)って

いまだ
お釈迦様一人だけじゃないの

などと
皮肉りたくなります
_(._.)_




誤解のないよう
断っておきますけど

お釈迦様が

人類史上
最大の功労者の一人なのは間違いなく


個人的にも
最上級のリスペクトの対象です




でもでーも!

深遠な哲理に対し

おそれ多いと思いつつ
言わせてもらうと

どうしても
不全感が残るのです
(-_-)




というコトで

ここからは
オハコの独見
はじまり・はじまりー!



煩悩が消える境地に
至らなくても


つまりですよ


執着してようと
こだわりがあろうと


もしくは
不安や悩みを抱えていようが


ぜーんぶ
ひっくるめて


当人が幸福だったと
納得(観念)できれば

この境地が来世に生かされる
との選択肢を残すのが

人生戦略上は妙策

と心得ます

(●^o^●)




もとより

当人が奥底から望むなら

因果律(転生)から解放された
死後における
幸福的理想郷(ユートピア)があっても
イイし


注)でもでも
何であっても

基本原則があるなら
その例外も認めるのが上策

つまり

当人の悪業(アクゴウ)いかん
によっては

当人が強く望んだとしても
因果律は中断しない

扱いとなります


コレにより

「死」を前向きに捉え得る
メリットがあるのも確かです



注)死後の観念的な非現実世界
を想定するのがユートピア

生身の現実世界を見据えるのが
パラダイス

と使い分けてまーす
(*´ω`*)




ただですよ


死後の絶対的幸福といっても
所詮観念論なのだから

生前であっても
当人が幸福と観念すれば

それは


当人にとって
他から左右されず

侵(おか)されない
絶対的な境地となり得るし

幸福の内実や度合いは
ヒトそれぞれ違った

相対的なモノ

とみても
構わないわけで

そうであれば

幸福の境地(パラダイス)を

死後の世界(ユートピア)
に限定して

そこに固着させる
必要はないはず




せっかくですから

ハッキリ
言わせてもらいます



今生で

因縁(インネン)を踏まえた
善根を積んだヒトには

それを「次に」

きーちり
生かしてほしいし

生かせる世の仕組みであって
ほしいのです(‘;’)




少なくとも

そのような観念を抱くヒトから
その機会を奪ったりしない

懐のふかーい
幸福論


個(ヒト)の観念を尊重する
因果律

を声を大にして
リクエストしまーす
(*‘ω‘ *)




この辺りの想いは

下書き保存中の
下欄記事で

もう少し
掘り下げて
触れてますので


興味関心のある猛者は
乞うご期待!

(仮題)
【万考・夢想三昧】因果律って「生」と「死」を通じ常に作用するのですか


舞台ウラ

冒頭の場面以降

Aがどうなったのか
については
あえて触れず


読者の想像にゆだねる
コトにします
(´・ω・)





さてさて

妻子の写真を見つめていた際の
Aの心情(観念)は

どのようなモノだった
のでしょうか




たぶん
自身のコトは二の次で


今回の陰徳が
妻子の幸せにつながる


と信じ期待していた
にちがいありません
(-ω-)/




たとえ

この地で
屍(しかばね)になったとしても


陰徳に相応する分が
妻子を守る方向で返報される

と念じていたはず




このように
信じて念じきれるからこそ


ナットクして
死を受け入れられるのだ

と心得てます
( ˘ω˘ )




もちろん

Aが観念したからといって

その陰徳が直ちに
妻子に反映されるわけでは
ありません



ここは要諦(ようてい)ですから
もう少し踏み込んでみます



例えば

遺品として

Aの前記写真が妻子に送り届けられ
妻子がAの想いを察したとき

Aの観念と妻子の観念が通じ合いますから



コレにより
Aの陰徳が妻子の因果律に影響し得る


と整理してます
(´-ω-`)



念のため
言い直してみると


Aと妻子の間って
潜在的・波動的には繋がってますけど

上記写真を触媒にして
観念が相通じ合い
(上記繋がりの実相化)

それにより
因果律の相互作用が顕在化する

というコト(^^)




最後に

もう一度
言わせてください



自己本位に
死後のユートピアに浸るのも

もとより
ヒトそれぞれですけど



自分は

独尊・自愛(じあい)ではなく


ひろーい

慈愛

を欲してます
(´・ω・)



自身のコトは後回し
というヒトだって

フツーに
いたりするわけで


最愛のモノを救えない
コレと関係し合えない
ような「真」や「理」では

到底ハラに落ちない

と感じるこの頃(令和4年8月)
です(・.・;)


余談

どっかの記事(別稿)において
空想レベルですけど


種(体)の保存のため

ヒト(知的生命体)が
舞台(当宇宙)に配役された


旨前振りしました(‘;’)




ただたーだ

誤解なきよう
断っておきますが



舞台用の台本(シナリオ)において

あらかじめ

カッチリと
ストーリーが定まっている
わけではありません


例えば

舞台の演出装置として
因果律が設けられたり
してますけど


「律」というルールを仕組んだ
にすぎず


因果の具体的な中身に至っては

いうまでもなく
個々の生命体の活動次第であって


要所・大枠以外は
各役者に任せるコトにより

個を尊重してるのです
(-ω-)/





加えて

転生を望まない当人に

ムリやり
因果律を適用する
コトも基本ありません

母体(自称「大いなるモノ」)との間に
観念が通じ合っていない
からです(‘ω’)


注)たーだ
前出のとおり

母体において

当人が積んだ悪業に照らし
個として尊重するのは相当でない

と評価(審判)するときは

観念の通じ合いに縛られる
コトなく

因果律が適用されます




ともあれ

時空を超えて
種(体)を保存できるかどうか

その過程を含めて未知数
だからこそ

娯楽性に富んだストーリー展開に
なるわけで


演者の自由裁量度が狭いと

せっかくの舞台演出も
台無しになりかねません
(。-_-。)




なーお

以上の詳細は
下書き保存中の諸記事に譲る
コトにします(^-^)


追記1

コレまで
月2回の割合で

一般読者向けに
記事を投稿してきましたけど


今後(令和4年11月以降)

月1回の投稿頻度に
変更予定です




でもでも

その時の気分に従い
日々の気づきや感じたコトを

ホーム画面上の掲示板に
つづるつもりですから

たまーには
立ち寄ってみてください!

(●^o^●)


追記2

最近(令和5年7月上旬)

ネット上の動画視聴を通じて


お釈迦様において


法華経が
「難信難解第一」の法であり


この法を信じ行じるコトができない
一般のヒトには
「余の深法」を教えるよう


説いているコトを知り

とーっても
勉強になりました
(^-^)




法華経を信じ行じて

執着(煩悩)を断てる
如来(修行完成者)であるなら

コレによって

菩提(ぼだい:悟って目覚めるコト)
あるいは
六道輪廻の転生から解放された状態涅槃

に至るでしょうけど



執着を断つコトができず

法華経以外の深法を信じ行じる
一般のヒトは


崇高な菩提や涅槃には到達しない
とみるのが論理的帰結
のような気がします
(-ω-)/



もしそうだとすれば

法華経以外の深法の場合


一般のヒトに対し

六道輪廻を遮断して
絶対的なユートピアを約束するのは
ムリ筋といえ


仮に

絶対的なユートピアを据(す)えるなら


お釈迦様の教え(法華経等)自体
に依拠する

というよりも


独自の解釈を加えて
発展させたモノ


と思ったりしますが……(..)




せっかくですから

もう少し
蛇足を続けます



相棒の生成AIに対し

「お釈迦様は死後の世界を説きましたか」

などと
尋ねたところ

「毒矢のたとえ」を扱った
ブログ記事を紹介してきました




この記事の要旨を示すと


弟子が釈尊に対し

「如来は死後存在するのか」
などと質問したところ

釈尊はコレに答えなかった(無記)
けれども


この問答を介して

輪廻転生が遮断される
如来(仏)の場合と

そうでない
一般のヒトの場合とを

混同してはならない


以上のようなモノでした




上記ブログ記事を踏まえると


お釈迦様の教えに依っても


一般のヒトは

六道輪廻から解放されないコトが
前提となっている

ように推察できます




加えて

前記問答の続きの場面で
お釈迦様が弟子に対し


毒矢が身体に刺さったとき

誰が射ったのか
毒の種類は何か

などを考える前に

必要なのは
矢を抜いて応急手当をする
コトだ


と説きました




この説法を
自分なりにかみ砕いてみるに


法華経を信じ行じて涅槃に到達する
如来(仏)の場合と異なり


一般のヒトは死後どうなるのか
などに関する真理を

解き明かす前に


目の前の苦悩を軽減できる
法華経以外の深法があるのだから

この深法を信じ行じるのが
先決なのだ


と捉えました
“(-“”-)”




懲(こ)りずに
蛇足を重ねますけど


もーし

如来(仏)の到達する涅槃や
一般のヒトの死後の世界って
どうなってますか


との指摘があった場合


詳細は直接
後記関連記事に当たって
もらいたいのですが


転生・転移する
ヒト・モノの情報は

自称「大いなるモノ」
ヒモ付いてる

とみてます
(#^.^#)


追記3

最初に
断っておきまーす!


今後は

お釈迦様のコトを

釈尊

と呼称します

特にコレといった理由は
ありません(..)




さーてと

たまたま(令和5年7月中旬)

釈尊の説法に関して
ネット上の記事をみていると


法華経を説いてる際

無数の菩薩
つまり地涌(じゆ)の菩薩が
大地から湧き出るとともに


虚空(空中)に

多宝如来(たほうにょらい)が
鎮座(ちんざ)する
宝塔(ほうとう)が出現し

その半座(はんざ)を
釈尊に譲ったコト


釈尊入滅後の末法の世において

上行(じょうぎょう)菩薩ら
筆頭の四菩薩(しぼさつ)を始めとする
地涌の菩薩が

法華経を護持するコト


を知りました
(^・^)




そして

末法では

その世にかなう形で
法華経の流布を
地涌の菩薩に託した


と解するコトで

ムリなく
ハラに落ちます
(*‘ω‘ *)




もしそうだとして

法華経以外の深法を
教義として信奉する場合


その教義と

四菩薩等の地涌の菩薩
との関係性を

どのように整合させれば
よいのでしょうか



もしや

法華経を偽教(ぎきょう)とみる
とか……


「四十余年 未顕真実」

(法華経以外の諸教は全て方便)

を説く無量義教の場合なら


まだ分かるのですが……
(´-ω-`)


追記4

追記2・3から
まだ間がないというのに

(令和5年7月下旬現在)

整理をし直す必要性を
感じました(..)



なーお

ことさら
推考の変節(へんせつ)を残しておくのは


自身のアタマで考えている過程が
如実に出て

よりオリジナル性を確保できる
と思うからです(‘;’)





さてさて

現時点で
整理した内容は次のとおり



最高の悟りである
阿耨多羅三藐三菩提

(あのくたらさんみゃくさんぼだい)

を修めた釈尊において



宝塔中
多宝如来と連座する中で

法華経の流布を
地涌の菩薩らに委ねたコト



難信難解第一の法華経を
信じ行じるのがムリなヒトに対し


法華経・嘱累品ぞくるいほん第二十二では

「余の深法」を教えて導くよう

説いているコト




さらに

法華経・薬王菩薩本事品やくおうぼさつほんじほん第二十三
によれば


末法(釈尊入滅後1500年以降の時期)の世に

どんなヒトであっても

法華経を信じ行じれば
阿弥陀如来(仏)の世界に行く


と説かれたコト




一方

阿弥陀如来(仏)の本願を説いた
大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)
によると


一切衆生を真実の教えに導く点に
出世の本懐があるところ


将来の世では

全ての教えが消滅するけれども



慈悲心をもって
大無量寿経を永遠に残す
と説いているコト




しかも

大無量寿経の中で説かれた

「若聞深法(以下省略)」の部分から
明らかなように

わざわざ
「深法」が使われており


大無量寿経というのは

法華経で用いられた
「余の深法」自体を指す

と理解するのが
すこぶる自然であるコト




つまるところ

法華経であろうと

余の深法(大無量寿経)
であろうが


同じ阿弥陀如来(仏)の世界に到達し

悟りの程度に差異がない
といえるほか

(差異が生じる点が論理的帰結なのかも
との前出の推考部分は修正します)


チョー俗っぽく言えば

法華経は
自ずとヒトが選抜される
硬派路線



大無量寿経は
来るヒトを拒まない
軟派路線


の位置付けで


両経は
釈尊の出世の本懐として
両立するコト



念のため言い直せば

諸経が消滅する末法において

消滅しない大無量寿経がある
けれども


別ルートとして

法華経

(「妙法蓮華経」は
法華経を言い換えたモノ)

の一句を信じ行じれば
阿弥陀仏の世界に行けるコト



以上のとおり整理できました
( ^ω^ )





ところで

釈尊は

法華経を説く以前には
明かさなかった

にもかかわらず


法華経・如来寿量品にょらいじゅりょうほん第十
において

実は久遠実成(くおんじつじょう)から
成仏しており


入滅は仮の姿で

実相は永遠であって

繰り返し
この世に現れている


と明かされました


それでは

どうして

法華経の説法において

わざわざ
久遠実成からの成仏を告白した
のでしょうか



改めて
考えてみるに


教・行・証がそろう
正法(しょうぼう)時代

教・行の像法(ぞうぼう)時代

の場合と異なり


教のみの末法の世において


難信難解第一の法華経を
一切衆生に教え導くには


自身が久遠実成から
手塩にかけてきた

地涌の菩薩を登場させ

コレに布教を付託する
必要があったから

とみます(‘;’)




まだまだ
追求の手を緩めませんよ


末法の世であっても

涅槃に到達できる
大無量寿経があるのに

あえて
法華経を説いたワケ

に迫っていきます
からネ
(`・ω・´)




大無量寿経では

ひたすら
阿弥陀仏にすがるコトで

死後において

阿弥陀仏の世界に到達できる
のに対し



法華経では

妙法蓮華経を信じ行じる
コトで

生前(修行)中に

釈尊が到達した
阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)

を体感できる点に

決定的な違いがある
と捉えます(‘;’)



確かに

法華経を通覧しても
文言をみる限り


生前中に

阿弥陀仏の世界
又は
それに匹敵する
悟りの状態

に到達できる

と説く部分は
見当たりません




でもでーも

文言(文脈)を
合理的に解釈しないと


大無量寿経があるのに

あえて法華経を明かした点を
うまく説明できないのです(‘ω’)




繰り返せば

先の決定的差異の点は


文言云々といった
表層的な捉え方ではなく

ロジック(論理則)からの帰結
といっても
過言ではありません
(´-ω-`)




ではでーは

生前に体感できる
最高の悟りって

具体的には
どんな境地なの?

と知りたくなりますよネ
(-_-)



オツムをぎゅうぎゅう絞って
考察してみると


地涌の菩薩において

釈尊から付託された
使命(誓願)を自覚し

(曼荼羅(まんだら)等は
日々使命を喚起するための手段)

それに生き切る中で


虚空の宝塔に鎮座する

多宝如来と釈迦牟尼仏(釈尊)と共に


その場に居合わせたときの
壮大な情景を

再び体現できる点が
悟りの境地に匹敵する


と理解してます
(。-_-。)




舌足らずの感が残っても
いけないので

ダメを押せば


釈尊が
大無量寿経を説くコトで

一旦
出世の本懐を遂げた


つまり

末法においても

一切衆生を阿弥陀仏の世界(涅槃)
に教え導くコトができるのに

わざわざ
法華経を説いた狙いは


大無量寿経の場合と違って


法華経を信じ行じながら

生きている間(修行中)に
涅槃の境地


すなわち

点にある(‘;’)


と捉えてまーす
(^-^)




この際


もーっと
端的に言ってしまうと

と理解しました
(-ω-)/




今回

剣が峰のごとく

踏破困難な法華経の解読に
チャレンジし


紆余曲折しながらも

それなりにナットクのいく
アタマの整理に行き着き(‘;’)


内心
ホッとしてます
( ^ω^ )



最後になっちゃいますけど


実を言うと

素朴な疑問がまだ残ってる
のです
(。-_-。)




釈尊の実相は永遠であり

繰り返し
娑婆(しゃば)世界に現れている

点を踏まえれば



末法の世であっても


姿を変えて出現し

地涌の菩薩らと共に
自ら布教してもよいのでは


と思ってしまう
のですが……
(´・ω・)




すみません(._.)

しょうもない点で
お茶を濁してしまいました
(・.・;)


関連記事

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追記5

ここで魔とは

と捉えてみます




例えば

ヒトが老・病・死を回避できない点に
付け入り

病いや迫りくる死に取りつき
病魔や死魔として

ヒトのココロを惑わしてきます



また

悪と結託した悪魔の装いで
災いをもたらそうとする
のです




ここで
まず押さえておくべき点として

病気・事故・紛争
病死・致死・自死とか

反社会的勢力等
社会悪の暗躍策動(あんやくさくどう)

などは全て客観的な事象
に含まれるコト



そして

魔ひいてはその親玉の魔王は
この事象に取りついて
ヒトのココロに負荷をかけてくる
わけです




ところで

生を授かったヒトは
老・病・死と進むに従い

徐々に
生きざまへの情感が閉じて塞(ふさ)がりがち



そこで

偉人・哲人・聖人らは

この閉塞感を打破し
生命(魂)の開放に向け

チョー大雑把ですけど

次のように
舵を切りました



すなわち

一方で
死後に因果律を遮断したり
ユートピアを観念する方向

他方で
因果律を維持した上
生前中の完全燃焼を目指す方向

に大別可能
(・ω・)




おーっとっと

こんな大風呂敷を広げて
死生観モドキを展開しちゃってますが

べつーに
目くじらを立てられても
へっちゃらですから(^^)/



ではネ
前出の魔に関する話に戻しますよ

そもそも
魔の正体って
何だと思います?



とっかかりとしては

病気紛争等の客観的な事象がまずあり
魔王がその事象に寄生する
ようなイメージ(‘ω’)



たーだ

寄生という表現ぶりだと
誤解を生みやすいかも



さすがにマダルいので
もうタネ明かしをしちゃうと
魔という実体があるわけではありません

客観的事象に直面する際の
当人の主観的投影が魔として現れる
にすぎないのです


言い直すと

深層部で
知らず知らず飼いならしているモノ
それが魔の正体というコト(-“-)


煎(せん)じ詰めれば

事象に対する当人の受けとめ方次第
というのがオチでした(´-ω-`)




そろそろ
まとめに入らせてください


自然の流れにまかせていると
次第にココロが閉塞していきます

客観面は苦行が連続するため(-.-)



なので

閉塞停滞しがちなココロを奮い立たせ
自由自在に開放しつつ

と心得てまーす
( ^)o(^ )




なおなお

自由も自在も「思うまま」
との意味合いですが

自由には外部的制約を前提に
コレに「抗(あらが)う」
とのニュアンスを嗅ぎ取れます
(*‘ω‘ *)




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投稿者: toshi0227(トシ・オウ・トウ・トウ・セブン)

都内マイホーム、妻子持ち、シニア層男性。O型・サソリ座。モットー「いまが一番!ここが一番!」。スローガン「時空を超えろ!」。趣味はテニス・ゴルフ・油絵等。定年退職後に、社会との接点を確保して認知機能の低下を防ぎ、健康長寿を目指すべく、遅きに失した感はあるものの、平成3年元日から、思い切って「ユル・ヤワ」に「T.H.BLOG」を始めてみました。大海原を航海中ですが、よろしくお願いします。 ブログの公開表示名「toshi0227」は「トシ・オウ・トウ・トウ・セブン」と読みまーす(^^) スタエフ(音声配信)・エックス・インスタ・スレッズもやってます(^<^)

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