クロス
カウンター
クロスカウンターパンチ
つまり
相手の打撃に合わせて
その顔面を打つ技(わざ)
のコトで
相手の先制パンチと
自身のカウンターパンチが
クロスします
テレビアニメ「あしたのジョー」
の主人公の必殺技ですネ
( ^ω^ )
実は
クロス
ダブルクロス
トリプルクロス
の順にレベルが上がります
といいつつ
あくまで
実戦ではなく劇画での話
ですけど……(^^)
相手の勢いづいた出鼻を
打ち返すため
相手の突進力と
自身のパンチ力で
威力が倍増!
決まれば
超かっこイイ
でーす(‘_’)
カウンターを狙う側も
ダメージをもらうリスクがあるので
いわば
肉を切らせて骨を断つ
覚悟が必要だったりします
(-_-)
もちろん
カウンターを繰り出す際
相手のパンチをもらわないに
越したコトはなく
かいくぐって
カウンターパンチを出せれば
ベスト!
いずれにしても
特に
トリプルクロスは
最後の切り札的な戦術
の位置付けが無難
と心得てます
(*^-^*)
マインドの面でいえば
背水の陣
に似たところがあるかも(-.-)
視点を変えると
相手の出鼻を利用する
ワケですから
軍事的な戦略戦術上は
奇策の部類に入る
との見方も可能
(#^^#)
大河ドラマ
令和5年度のNHK大河ドラマは
「どうする家康」
徳川家康を主人公(俳優・松本潤)
として
話が展開し
現在(9月初旬)
重臣・石川数正(かずまさ)出奔
(しゅっぽん)の回(第33話)が
終わったばかり
同ドラマの中
出奔直前に
家康と数正の二人で語り合う
場面があり
数正:
「殿
決してお忘れあるな
わたくしはどこまでも
殿と一緒でござる」
とーっても
意味深(しん)のコトバで
終わっているのです( ˘ω˘ )
数正の出奔
正直
数正出奔のワケって
もう言い尽くされている
と思ってましたけど
ドラマ仕立てとはいえ
あまりに
意味深長なセリフ回しのため
首を突っ込みたくなりました
(・_・;)
ネタ自体は
ライブ感アリアリですけど
本稿のリリースは
ずーっと
先になる見込みなので
その時点では
大して
反響もないだろうから
まぁ
いっかー
っていう
ノリで書いてます
( ^)o(^ )
注:一旦は
本文のように考えたものの
モノ・コトにおいて
「旬」の観点
も軽視できないよネ
などと思い直し
秘技・ゴボウ抜き
を繰り出すコト
にしました
(#^^#)
出奔前の経緯
数正出奔前までの主な経緯
に触れてみます
天正10年(1582年)6月
本能寺の変が起こり
明智光秀を討ち取った秀吉は
清須(きよす)会議で
嫡男・信忠遺児(いじ)・三法師
(さんほうし・のち秀信)
を織田家当主と確認
その後
次男・信雄(のぶかず)を
三法師の名代(みょうだい)に擁立
一方
家康は
本能寺の変後
武田遺領の甲斐・信濃を確保し
合計5か国を領有
天正11年(1583年)4月
秀吉は
賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで
三男・信孝を擁する
織田家筆頭家老・柴田勝家
を破り
その後
信雄との関係が険悪化
秀吉は
信雄の三家老の懐柔(かいじゅう)策を
取ると
信雄が
家康と同盟を組んだ上
三家老を殺害
コレに激怒した
秀吉は
信雄に対し出兵を決定
天正12年(1584年)3月
小牧・長久手(こまき・ながくて)
の戦い開始
秀吉陣営と信雄・家康陣営が
激突・対峙したまま
同年11月
まず
秀吉の説得に応じた
信雄が
単独で
秀吉と講和を結び
戦いを続ける大義名分を失った
家康側も
次男・結城秀康
数正の子(康勝)ら
を人質に差し出して
秀吉と
講和を結びました
さらに
秀吉において
信雄・家康陣営に
呼応する形で蜂起(ほうき)した
四国の長曾我部元親
紀州(きしゅう)の
雑賀(さいが)衆・根来(ねごろ)衆
を天正12年(1585年)8月までに制圧
その後
前同様蜂起した
富山の佐々(さっさ)成政
を攻める際
成政と結託しているとの疑念が残る
家康側に対し
重臣を追加で人質に出すよう
要求したところ
家康側がコレを拒否したコトを
口実として
家康討伐(とうばつ)を計画し
美濃(みの)・大垣城に
大軍(15万)の兵糧を備蓄し
数か月後には
総攻撃できる用意が整いました
外交交渉を担当していた
数正は
家康側に下るコトを
必死に上申しますが
受け入れられなかった
ばかりか
秀吉親和派と揶揄(やゆ)されて
家康側内部で孤立します
そして
天正12年(1585年)11月13日
数正出奔
なお
数正出奔から約2週間後
天正(てんしょう)地震が起こり
前線基地の大垣城が全壊
秀吉軍の展開が予定された
美濃・尾張(おわり)・伊勢地方の損害も
甚大(じんだい)だったため
以降
秀吉は方針を転換し
天正14年(1586年)5月
妹・旭(あさひ)姫を夫と離縁させ
家康の正室としますが
それでも警戒する
家康は
上洛(じょうらく)しようと
しません
そのため
同年10月18日
母・大政所(おおまんどころ)を
上洛期間に限る条件で
人質として
家康側に差し出します
コレによって
ようやく
家康は
大阪城に上洛
同年10月27日
秀吉と謁見(えっけん)し
臣従を表明しました
出奔後の経緯
続いて
数正出奔後の主な経緯に
触れておきます
数正は
秀吉から一字をもらい
吉輝(よしてる)と改名する
とともに
秀吉により
河内(かわち)国内に
8万石の所領を受けます
その後
小田原城等の北条家討伐以降
家康の関東移封(いほう)を
終えてから
信濃の松本に10万石で
加増・移封され
文禄2年(1593年)
肥後(ひご)国の陣中(第一次朝鮮出兵)
の際に死去(享年60)
時が経ち
慶長18年(1613年)4月
大久保長安(ながやす)事件が起こり
江戸時代初期の大粛清(せいしゅく)
となりました
背景として
宿老同士の争いがあり
武断派の大久保家と文治派の本多家とが
対立する中
幕府の要所である
佐渡金山・石見(いわみ)銀山を支配した
大久保長安が横領罪で問責され
コレに連座(共謀)した
との理由で
石川家(康長ら)が改易されて
途絶え
同時に
宿老の大久保家(忠親)
老中の青山家(重成)
いずれも改易の憂き目にあい
武断派は粛清されたのです
家康において
長安の存命中は
その行状(ぎょうじょう)に
目をつぶっていたものの
本多正信・正純親子の
諫言(かんげん)により
大鉈(おおなた)を振るった
との説が有力
元和2年(1616年)4月
家康死去(享年75)
出奔の真相
さーてと
前提が整ったので
数正出奔の真相に迫ってみます
ネット上の記事をみると
秀吉の誘い(ヘッドハンティング)
を受けて
自身の能力を生かし
高い報酬を目当てに
家康を見限り
秀吉に鞍(くら)替えした
との所見が
目にとまりました
なるほど
スッキリしており
魅力的なのですが
軍制軍規の機密情報が
筒抜けになり
(実際にも出奔後家康側は
軍制を武田流に改めています)
徳川家の存亡に影響するため
出奔する当人のみならず
その一族郎党に
危害が及びかねないなど
鞍替えは
それなりに覚悟を要するはずで
現代社会と同列にみるのは
シンプルすぎる
気がします(..)
シンプルさが
金科玉条(きんかぎょくじょう)
のように
もてはやされている節を
感じますけど
そもそも
社会の底流をなす
人間模様は
複雑にして
場合により
怪奇だったりしますから
シンプルを適用する部面を
見誤ってはいけない
と心得てます
(-_-)
というコトで
もう少し
補強(理論武装)すれば
やーっぱ
従来から言われてるように
数正において
信濃の小笠原貞慶(さだよし)
との交渉役を
担っていたにもかかわらず
貞慶に離反され(秀吉側につく)
その責任を問われる立場
にあったコト
秀吉との取次役という
重責を担い
孤立無援ながら
秀吉傘下におさまるコトを
毅然と訴えたものの
自身の意向は採用されず
家中の政争に敗れた形になった
ばかりか
秀吉シンパ扱いされて
内部的に
不協和音が鳴り出していたコト
などを主な理由として
秀吉側に走った
との評価が
説得的で無難なモノ
とみてます
(。-_-。)
こう考える背景として
秀吉のコトだから
折に触れて
数正をそれとなく誘っていた
にちがいないのです
この点
秀吉陣営に下ったあと
ですけど
伊達家(政宗)の重臣
片倉景綱(かげつな)
上杉家(景勝)の重臣
直江兼続
を直臣(じきしん)に引き込もうとした
のは有名ですネ
ただたーだ
そうはいっても
前出(ぜんしゅつ)の大河ドラマでも
そうであったように
家康と数正との間にも
なんらかの暗黙の了解事項が
取り交わされていた
との見方は
軍記モノ・歴史小説が好みそうな
ストーリー仕立てになってしまい
かねないものの
捨て難いところがあるのも
否定できません
ではでーは
なぜそうみざるを得ないか
について
補足しておきます
家康において
関ヶ原の合戦で勝利し
豊臣家を滅ぼして以降
東軍に属し行動を共にしてきた
石川家を
直ちに
移封したりするのは
政策的にみて
得策とはいえない
としても
もーし
数正出奔の際
信頼する忠犬に手をかまれて
メンツを失ったなどと
遺恨(いこん)が残っていた
とするならば
難癖(なんくせ)をつけて
移封改易させるのは
そんな難しいコトではないし
時間の問題ともいえそうなのに
実際には
先の大粛清事件を待つコトに
なるのです
こうした不可解さが残る
点に鑑(かんが)みれば
家康と数正の間に
暗に通じ合うモノが
存在していた
との見方も
あながち
不合理とはいえない
てかてーか
特段
違和感を覚えません
( ^)o(^ )
家康の関東移封後
数正が
畿内(きない)・河内から
地理的に関東(家康)に近い
信濃・松本に
転封されたのは
もしや
秀吉における
数正の心情を酌(く)んでの
イキな計らいだった
のかも”(-“”-)”
どうです?
あの秀吉なら
まんざら
あり得なくない
でしょ(#^.^#)
まとめ
さてさて
冒頭において
いきなり
クロスカウンターの話で
スタートし
奇策の点で結んでますから
帳尻を合わせたい
と思います
立論の前提として
「クロス」する対象を明らかにする
必要がありますネ
既出のとおり
数正出奔の直前には
秀吉側による総攻撃の準備が
整っていたため
この点を捉えて
秀吉側から繰り出された
先制パンチが
家康側に向かっている状態
と見立てます
一方
数正において
家康を裏切る形を
とりつつ
例えば
秀吉と家康が
いざ決戦になった場合
獅子身中の虫
(しししんちゅうのむし)
のごとく
刺し違えるくらいの
覚悟を持って
出奔したとする
ならば
家康・数正側にとって
出奔劇は
奇策
(クロスさせるカウンターパンチ)
に匹敵する
と見立てるのです
(#^.^#)
家康側の視点で
もうちょっと
掘り起こせば
当時の家康において
あえて
秀吉に抗(あらが)い
決戦も辞さない構えを
みせるなど
大局が見えてないって
いうか
井の中のカワズっぽさが
露呈しています
(あくまで「当時の」ですから
家康ファンは気分を害さないでください)
一定期間
家康に敵対したものの
当時帰参済みの
本多正信については
時期的に
本領(智謀と行政手腕)を発揮する
前の段階だし
いうまでもなく
幕政のブレインだった
南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
金地院崇伝(こんちいんすうでん)
の登場はずーっとあと
になります
当時の家康自身
タイムリーに
タヌキ(サルではありません)芝居を
主導する才智器量があったとは
さすがに
思えないので
数正の独断(出奔劇)を
暗黙的・事後的に
容認する形になった
とみるのが穏当(‘;’)
なんだかんだいっても
数正って
忠義心に厚い三河武士の
本流ですからネ
侮(あなど)っては
なりません(-.-)
もーっとも
奇策の点について
相手との関係で
その「想定外」を要求する場合
抜け目のない
秀吉との関係で
想定外と位置づけるのは
難しい
と捉えてます
(´・ω・)
家康と一戦交える事態に
なったとき
秀吉なら
数正について
先鋒(せんぽう)として
用いるのは
フツーに
あり得るとしても
軽々(けいけい)に
自身に随行させたり周囲に配置する
というのは
到底考えにくいからです
(`・ω・´)
もともと
秀吉としては
誘うなどした手前
数正を蔑(ないがし)ろには
できないとしても
かといって
重用する気もサラサラなく
家康から引き離して
「飼い殺し」にすればそれで十分
だったはず(-.-)
以上を踏まえると
とどのつまり
出奔の点は
奇策(クロスカウンター)
の切り口でみた場合
その効果は
甚(はなは)だ
不十分なモノにとどまる
言い直すと
クロスさせたカウンターパンチは
相手(秀吉)に
ほとんどダメージを与えない
というコトになりそう
(;^ω^)
おーっと
忘れるところでしたけど
「将の将」の視点からも
触れておく必要がありました
(・.・;)
とはいっても
話は簡単で
合戦を
盤石なモノにするには
引き出しは多いほうがよい
に決まってます
王道をきちんと押さえるのが
超大事なのは
いうまでもないですが
たーだ
詭道(きどう)も軽視できません
(-ω-)/
本稿で
奇策に触れたのも
この趣旨からでーす
(●^o^●)
なおなーお
奇策の点が
内容を肉付けるに当たり
スパイスになっているのが
次の下書き保存中の記事(‘_’)
三国志ファンなら
目からウロコが落ちるかも
(^-^)
(仮題)
【人間考・将の将】各論〇:三国志演義で〇〇の〇〇を誇る登場人物
注:検索エンジンとして
Microsoft Bingを使っているところ
標準仕様のダークテーマに合わせて
本稿を記述している関係から
もーし
ライトテーマで閲覧する場合
(Google経由とか)には
強調文字の色合いがイマイチでーす!
御容赦ください
_(._.)_
追記1
大穴の予感
注)当記事は
当ホーム画面上の「掲示板」
更新日:R5/12/28の記事を転載したモノ(‘_’)
本日は仕事納め(^^)
明日から休み
ヤッター!
「将の将」シリーズとして
三国志ネタの記事を下書き保存中
ですけど
年末に向けて
太平洋戦争モノを仕込むつもり
「大穴」になりそうな
気配・予感がします
( ^ω^ )
コレまでの諸記事の中で
前記三国志関連記事と共に
双璧になるかもでーす(^.^)
なおなお
明(みょう)年の当ブログの始動は
1月4日(木)からを予定(‘;’)
でーーは
最後になりましたが
皆さーん
良いお年をお迎えくださーい!!
追記2
敗北感アリアリ
注)当記事は
当ホーム画面上の「掲示板」
更新日:R6/1/4の記事を一部転載したモノ(‘_’)
まずは能登半島地震で
亡くなられた方々の御冥福を
心よりお祈り申し上げます
ところで
すっかり
明けてしまいましたが
本年も
どうぞよろしくです!
(ウッ日本語おかしくない?)
せっかくですから
年末年始に関して
2点報告させてください
1点目は
気合を入れて取り掛かったはずの
太平洋戦争モノのブログ記事が
ぜーんぜん
終わりませんでした
(・.・;)
敗北感アリアリ!
(余裕かましてたの誰だっけ)
引き続き取り組んで
なんとか書き上げるつもりです
(;^ω^)
(誰も期待してないから)
2点目は
スマホをandroidからiPhoneに
替えました
音量の高域に幅がある点
操作性がよりやさしい点
でとても気に入ってます
検索エンジンでAIを利用できない点が
ネックとの指摘もありますけど
(そのとおり!)
自分の場合
記事作成は
専らパソコンでやりますから
スマホがAI未対応でも
問題ありません
( ^ω^ )
(あなたは・でしょ)
最後に
たまーに出没する
「幻聴」クン
大目に見てくださいネ!
(ちゃんと呼び名つけて……)
シャットダウン
(#^^#)
追記3
太平洋戦記モノ
(その1)
注)当記事は
当ホーム画面上の「掲示板」
更新日:R6/1/11の記事が移行されたものです
まだまだ終わりません
なにがって
例の太平洋戦記モノが
でーす!
あまりに不甲斐ないので
ウラ話をさせてください(..)
実のところ
当テーマについては
ほぼ完成形の記事が
随分前に
仕上がってました
(^-^)
ところが
久々に
読み返してみると
視点のズレた陳腐な内容
だったのです(-.-)
もちろん
仕上げた当時は
盲点をえぐり出しており
読み応え十分!
と調子づいてましたが……
内容面の部分的な手直しに
とどまらず
構成面から
練り直さざるを得なくなり
全面改訂に相なりました
(;^ω^)
文字数でみても
投稿済み・下書き保存の
諸記事の中で
記録を更新中
(#^^#)
遅くとも
今月末までには仕上がるよう
取り組んでまーす
でないと
次の記事に進めないので(‘;’)
あとあーと
来週18日(木)に
一般読者向けの記事を
リリース予定です
とはいっても
場合によっては
延期するかも(^^;)
追記4
太平洋戦記モノ
(その2)
注)当記事は
当ホーム画面上の「掲示板」
更新日:R6/1/25の記事が移行されたものです
いきなりですけど
勝どきを上げさせてくださーい
(・ω・)
バンザーイ!
バンザーーイ!
すみません(..)
どうした?
どうして?
ですよネ
実は
鋭意取り組んできた
後記下書き保存中の記事が
ついに仕上がりました
(#^^#)
(仮題)
【人間考・将の将】各論〇:太平洋戦争の〇〇〇〇点で見落とされてきた「〇〇賞」を決定!
長文って
なーんか
「贅肉(ぜいにく)」感が残って
好みではありません
だから
米軍側からの視点は
極力省(はぶ)いたし
局所的なエピソードも
ごっそりカット(‘;’)
なのに
結果として
3万3000超の文字数
になっちゃってます
(+_+)
どうしても
当時の軍首脳に対する
辛口のコメントになってしまいがち
(。-_-。)
つまり
どストライクの戦闘場面をネタにした
人物評がエグいですから
ハッキリ言って
今後当ブログのネタに関連する
映画とか書き物については
当ブログの視点を踏まえないと
キツーいかも(-“-)
例によって
独見しまくっており
つーーか
ここまで言っちゃっていいの
と懸念するレベルです
(・_・)
というコトで
リリースは信頼に値するヒト
に限るつもり(-.-)
ただ誤解なきよう
言い直すと
信頼できるかどうかは
社会的な属性といった
客観面よりも
あくまで
自己チューな主観(好み)
による予定(^-^)
たまたま
下書き保存中だった当記事を
読み返したのをきっかけとして
昨年の年の瀬から
当記事の全面改訂に取り掛かり
ここに至るまでの間に
世間では
能登半島地震
羽田空港衝突事故
性〇害問題
など
いろいろ
生起しました
いろんな意味で
個人的にも忘れがたい
記事になりそう
(´-ω-`)
※ホーム画面にもどる!
