【人間考・将の将】各論1:詠み手の深意が未解明な「辞世の句」

1 千利休切腹までのあらすじ

⑴ 人物像

千利休(せんのりきゅう)といえば


現在の茶道(「さどう」「ちゃどう」どっちもアリ)
の流派である

表千家(おもてせんけ)

裏(うら)千家

武者小路(むしゃこうじ)千家


の祖とされる人物で


茶聖(ちゃせい)と称されてます




幼名(ようみょう)が田中与四郎(よしろう)

17歳の時
茶の湯を学び

19歳の時
千宗易(せんのそうえき)を名乗るとともに

筌斎(ほうせんさい)を号しました

「筌(せん)」とは漁具(ぎょぐ)

「抛(ほう)」とは投げうつ
(※この文字は後記のとおり再登場します)

との意味で


家業の
海産問屋(かいさんとんや)を投げ捨て

茶の湯の道に入る

との
並々ならぬ決意が

うかがえます




最終的には

後記のとおり

千利休との称号に
なります



もともとは

堺の商人で

武野紹鴎(たけのじょうおう)を
師事し

織田信長・豊臣秀吉の
茶頭(さどう)となり


天下一の茶湯者(ちゃのゆしゃ)
と評され


秀吉の側近として

政治に深くかかわります



元来

豪華な部屋で貴族らが行う
「書院の茶」が主流の中で



禅の精神を取り入れた
質素な「わび茶」の原型を


村田珠光(じゅこう)が
まずは創始

引き継いだ
前記武野が完成させ

コレを大成させたのが

利休となります




なおなお

利休は60歳まで先人の茶を踏襲し

61歳(「本能寺の変」の年)から

独自の茶の湯を始めたため


最後の10年間が

利休自身の「わび茶」の
完成期といわれてます




ところで

利休には

ライバルとなる同世代の茶人が
二人いました

今井宗久(いまいそうきゅう)

津田宗及(つだそうぎゅう)


以上三人を

天下三宗匠(てんかさんそうしょう)

と呼んでます



ここで
突然ですけど

皆さん
気になりませんか

自分は

とーっても
気になります


なにかーといえば

当の三人の優劣関係
の点がです


っていうのは

もーし

利休に対する
今井・津田の関係が

同格又は格上だとしたら

利休に対する自身の見方が
左右され得るからです



なので

この点をみておくと


三人とも

商家出身ですけど

利休に対し

今井・津田の家柄が
格段に上でした



でーも

茶頭における
今井の序列は

明らかに
利休・津田の下



そして

津田は

当代随一の
審美眼(しんびがん)の持主と

称されてましたが



茶道具の工夫の点で

利休に先を越されてしまい


北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を最後に

茶頭の地位を解かれます


ですから

遅くとも
最後のほうは

利休に軍配が上がりました


⑵ 切腹までの概略

ところがどっこい

突然

利休は

秀吉から

自宅謹慎を
命じられてしまいます


利休が私費で修復した
京都大徳寺山門の上に

利休像(木像)を置いた点が

不敬罪に値するとの理由からです



大徳寺山門は秀吉もくぐっており

上から見下ろすのは

無礼極まりない

というモノ



秀吉としては

利休に謝罪を請(こ)わせ

公然と

上下関係をハッキリさせるのが

狙いだったのかも




前田利家(家臣団トップ)において

利休へ使者を送り


秀吉の妻(おね)又は母・大政所(おおまんどころ)
を通じて

謝罪をすれば今回の件は許される旨
助言したのに


利休は

コレを断ります


その後

利休の切腹執行のために

茶の間を訪れた
3人の介錯・検使(けんし)にも



事態に動ずるコトなく

自ら茶を出してもてなし


二畳足らずの狭い部屋で

本懐を遂げました(享年70)



なーお

前記3人のうち

介錯役は利休の門弟だったヒト



切腹の詳しい状況は
不明ですけど


もしかすると

腹を切ろうとする瞬間に
介錯してたのかも



とはいっても

利休に対し

アタマでっかちの
ひ弱なイメージは

全く
当たってません



体躯(たいく)は

現存する甲冑(かっちゅう)
のサイズから

180cmくらいあったと
推定されるほか



それなりの数の武将らが
弟子入りしてる状況に照らし


茶事を通じて

相手(客人)のココロをつかむ巧みさも
さるコトながら


もーし

利休にひ弱さがあった
とすれば

コレを本能的に感じ取れる
武将らが

コレほど
利休を師事するはずがない

と推察できるからです


2 切腹の真相

秀吉が利休を自宅謹慎にした
大義名分(理由)は

次の2点です


①大徳寺山門に安置された利休像が不敬に当たる

②茶道具を法外な高値で売って売僧(まいす)と成り果てた




でもでも

既に触れたように

秀吉の目論見とは裏腹に

利休はアタマを下げません


秀吉の重鎮・妻・母親を介しても
利休の態度は変わらなかった


のみならず


切腹を命じた際にも


秀吉としては

利休が翻意して謝罪を請(こ)えば

許すつもりだったはずなのに

(※この点後記のとおりむしろ秀吉は積極的に利休切腹を欲したとの異説アリ)

利休は

自身の美学を貫きました





目利きの利休において


ブランド価値を付与した
道具類を転売して

巨額の財を得たり


政治への影響力を強めた

としても



所詮

商人(経済的影響力)にすぎません



確かに

利休には一部の武将ら

例えば

細川忠興(ほそかわただおき)

織田有楽斎(おだうらくさい)

蒲生氏郷(がもううじざと・利休七哲筆頭)

が茶の湯で弟子入りしており

(だからこそ切腹命令の際に弟子入り武将らによる利休奪還を阻止するため上杉の軍勢が屋敷を取り囲んだのです)


そればかりか

徳川家康

前田利家

といった
錚々(そうそう)たる有力武将が

利休に相談事を持ち掛けるようになり



秀吉側(特に側近)から

利休が武将らと
政治的ネットワークを形成してる

ようにみえたとしても



天下に大号令をかけ得るほどの
権勢を誇る豊臣政権に対し

実際上

危うくするような存在・勢力に
なり得ないコトは


秀吉はもとより

利休本人も

分かってたと推察されます



だーって
ですよ

利休と秀吉の年齢差って

15歳ですからネ


フツーに考えて

秀吉の心配事が

自身亡き後の豊臣政権の維持・繁栄
だとすれば


自分より利休が先に亡くなる
と期待するのが

自然ですから


そんなに
目くじらを立てなくても

大丈夫だったはず
なのです




逆にいえば


背信のつもりなど毛頭ない
か・ら・こ・そ

利休は

時の絶対的権力者
たる秀吉と
(当時秀吉に面と向かって意見できるのは利休しかいませんでした)

あからさまに

精神レベルで
対峙できたのだ

と理解してます




頂点に立ち

全てを手中に収める
秀吉にとって


ムダな装飾を極限まで削ぎ落として
たどり着いた

利休の美の境地に対し

嫉妬心を抱くコトがある
にしても


豊臣政権の行く末を案じるほどの
恐怖心を感じるコトは

なかったと考えます



類稀(たぐいまれ)な美的センスを有する
利休が選んだ骨董品は

誰が見ても価値があると
分かるモノでした




秀吉は

目利きの才能がある
利休の希少性を認めて

一目置いており


切腹を命じた際にも


価値観(美学)で対峙する利休から

一言
謝罪のコトバが出れば


対外的・メンツ的には

十分目的を達し得るため

それで許す腹づもりだった

と捉えてます




なのに

秀吉の意図に反し

利休が屈服しなかったため


とうとう

秀吉は

ホコを収められなかったのです




結局

利休は

圧倒的な権勢を誇る秀吉に

あえて
抗(あらが)い

自身の美学に殉じました





なおなお

切腹の理由として

既出の大義名分のほかに


③黄金の茶室を作ったり大茶会を開いたりと華美な茶の湯を好む秀吉と考え方が対立した

④利休切腹の数か月前に豊臣秀長が病死して豊臣政権下における利休の後ろ盾がなくなった

⑤武器の商人として私腹を肥やした

⑥娘を秀吉の側室にしなかった

⑦切腹した2月28日の前月に利休が家康とサシで茶会を催すなど

秀吉側から誤解されかねない行動に及んだ

利休がキリスト教徒であると秀吉から疑われその反感を買った


などなど

諸説があるものの


いずれも

単体では説得力に乏しい
と捉えてます


⑴ 利休とキリスト教の関係


ここでちょっと
脇道にそれて

まずは

利休とキリスト教との関係性につき
深掘りしてみます



当時秀吉は

キリスト教の布教を
禁じてます


一方

利休の弟子である武将のうち

蒲生氏郷・高山右近らが
キリシタンでした


そして

わび茶の回し飲みは利休の考案ですが

キリスト教会の聖餐式(せいさんしき)
と酷似してます



でもでーも

個人的には

次の二つの理由から

利休はキリシタンではなかった
と考えてます


①禅宗に傾倒

利休自身が茶道の根底は禅のココロ
と語るように

禅宗に深く傾倒してました

②切腹受入れ

秀吉亡き後起こった関ケ原の合戦での
西軍武将小西行長は

自害を禁ずるキリシタンだったため

切腹を拒否して斬首されましたが


利休は
切腹を受け入れてます



もしかすると

秀吉側は

利休がキリシタンかどうかを
確認する意味合いも込めて

切腹を命じ


利休が

キリシタンを理由に

切腹拒否を期待してたのかも


なーお

利休切腹の直前に

利休の娘が自害しました

父親にかけられたキリシタンの疑いを
晴らすため

との説もあります

痛ましい限りです(..)


⑵ 本能寺の変の首謀者

続いて

利休こそ「本能寺の変」の首謀者である
との説について考察してみます



秀吉もその共犯者であったり

あるいは

共犯関係にないとしても

その事情を知ってた
とすれば


秀吉は

腹のドス黒さが際立つ
利休を

決して信頼しなかった
はずなので


自身の目の黒いうちに

利休を仕留めたい
と望んでも

特に
違和感がなく


よって

切腹命令も

秀吉が積極的に欲した

と考えるのが

自然な帰結です





ただたーだ!


信長のハイカラさは

利休のわびの精神と

相いれない点があるのは
確かですけど



信長は

「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」
といって

特定の家臣に
茶の湯を許可するコトで

茶の湯を政治利用した張本人である
ところ

わび茶の精神も取り入れて
異文化と融合させており



利休自身

信長時代は

先人の茶の湯を踏襲する
立場にすぎず

独自色を
鮮明にしてないなど

信長への反感・敵対心は

特にうかがえないコトから



本能寺の変を首謀する
動機に乏しく


利休首謀説は

説得力に欠けます




そもそも

利休がそんな腹黒い輩(ヤカラ)であった
とすれば

側近に
強く促されるまでもなく


秀吉において

利休を


もっと早い段階で
仕留めにかかったであろうし


コレほど
政治的に重用するコトもなかった


はずです


⑶ 利休生存の真偽


次いで

利休は切腹しておらず

その後も生き続けた

との説について考察すると



利休生存説の根拠として


①朝鮮出兵の指揮を執るため

秀吉が九州の陣にいた際


昨日 利休の茶にて 御膳も上がり 面白く


などと

手紙で

利休流儀の茶事での
会席(食事)をしたコトを

大政所に報告してます



②伏見城の築城の件で


伏見の普請の事 利休に好ませ候て 懇ろに申し付けたく候


と利休好みに設計するよう

側近の前田玄以(げんい)に
手紙で命じてます





でもでも

この点については


後記のとおり

利休切腹を後悔してる秀吉の心情が

反映・吐露されてるにすぎない

とみるのが無難です



利休切腹に関する資料的裏付けが
希薄とはいえ


利休生存説にも

コレを支える有意な資料が
見当たらず

憶測の域を出てないほか



「切腹」の動かぬ証拠が
ないのをいいコトに

だからって
「生存」といわれても

突飛(とっぴ)に過ぎ



どうみても

手紙の件は

我田引水の感を
拭(ぬぐ)えません(-.-)


3 利休の美意識・美学

利休は


不完全だからこそ美しいとの


不足の美


に禅思想をとり込み



外来の
高価な名物茶碗を

盲目的に
有り難(がた)がるのではなく


日常生活で使ってる雑器を

茶会に用いて

茶の湯の簡素化に努めたほか




師の教えを更に進め


わびの対象を

茶道具だけでなく

茶室の構造や茶の作法等

茶会全体に向けました



例えば

利休が設計した二畳敷の小さな茶室
「待庵(たいあん)」(国宝)は

限界までムダを削ぎ落とした究極のモノ

利休が考案した入口(にじり口)は

間口が狭く低位置にあり

武士や商人を問わず

誰もが身分に関係なく
頭を下げないと

入れないモノで

特に

武士の魂たる刀を外さないと
くぐれない構造になってた上


一度
茶室に入ってしまえば

全てが平等

との
雰囲気を

醸(かも)し出す空間でした


4 利休による辞世の句と現代語訳

それでは

いよいよ

ここから真打登場です


遺偈(ゆいげ)とは

禅僧が弟子らに言い残す詩歌(漢詩)

ですが



コレを

現代的に

分かりやすく
言い換えると

辞世の句

となります


⑴ 利休の辞世の句



利休は次の句を詠みました

読み下し文も一緒に付記します


人生七十 力囲希咄
(じんせいしちじゅう りきいきとつ)



吾這寶剣 祖佛共殺
(わがこのほうけん そぶつともにころす)



堤る我得具足の一太刀
(ひっさぐる わがえぐそくのひとつたち)



今此時ぞ天に抛
(いまこのときぞ てんになげうつ)


⑵ 現代語訳の一例

問題はこの現代語訳の意味合いです

ホント

ビックリするくらい

諸説があります



しかも

内容的な振幅(落差)が半端なく


例えば

「利休の気が触れたかのようなモノ」から

「茶道と刀剣を置き換えたと解釈するモノ」まで

十人十色(じゅうにんといろ)の様相を
呈してます


句の真意を酌(く)むのが超難解
といわれるのも

うなずけます





一例を挙げると



辞世の句から読み取れる利休のメッセージは

「怒り」と「無念」だけで


わび茶の静かな世界をカモフラージュに

内面に野心をたぎらせてたと捉えて


辞世の句を


「クソッタレ!宝剣で先祖の魂も仏も皆殺しだ」


などと
解釈する論者が

いたりします




字面(じづら)を素直にみると

秀吉への恨み辛(つら)みの全てが
吹き出たような

激しい響きのある句

と受け取るのも

確かに

一面
うなずけます




でもでーも

この見方だと

明らかに

違和感が残ります




このような句の解釈をすると


自身の美学に誇りを持ち

秀吉との精神的な闘争を

粛々と
続けてきた人物が

そのような意味合いの辞世の句を
詠んだとは

到底
思えないからです




加えて

切腹直前

利休は

介錯・検使役を
わび茶でもてなしてます

狭い空間における
静寂した独特の雰囲気の中での

ある意味

真剣勝負の世界
と心得ます




茶の席で想定される
達観的な振る舞いと

捨て鉢(ばち)に映る句とは

どうみても

しーっくり
結び付かないのです


⑶ 現代語訳の自説

一定の角度から

辞世の句をみてきましたけど



そろそろ

自分なりに

句の深意(しんい)を
考察してみます


ア 力囲希咄

力囲(りきい)

希咄(きとつ)

については

共に
仏教(禅宗)上の「掛け声」に相当し

「えい!」「やー!」

的に訳されたりします



要するに


禅宗的な意味合いに照らせば

完全な悟りを得た瞬間に

思わず発するコトバ

となります


イ 吾這寶剣

吾這寶剣(わがこのほうけん)

つまーり

「吾がこの宝剣」でいう宝剣とは

その上にハラリと落ちた毛さえも

スパッと切るほどの鋭利さを持つ

吹毛剣(すいもうけん)

のコト




そして

「吹毛剣」は


仏の智慧(悟り)の鋭さ


を例えたコトバです


ウ 祖佛共殺

祖佛共殺 (そぶつともにころす)とは

仏教(禅宗の一種である臨済宗)上の表現で


一切合切を受け入れる


との捉え方があるようです




もっとも

ここでは視点を変えて


自身の悟りの境地(わびの美意識・美学)の
鋭さ(無類さ)は

祖先や諸仏のいずれをも

滅(めっ)せさせるほどの
威勢(いせい)がある


との意味合いで

理解するコトにします


エ 堤る我得具足の一太刀

堤る我得具足の一太刀
(ひっさぐる わがえぐそくのひとたち)

につき

ひっさげてるのは「我得具足」
と捉えます



「 得具足」(えぐそく)について

「武器(宝剣)を得た」と解するのは
誤りであり


「得手具足」(えてぐそく)と理解して

得意の武器と解します



つまーり

吹毛剣(=仏の智慧=悟り)を

「得意の武器」として

ひっさげてる

と解します



言い換えると

悟りそのモノが

「吾がこの宝剣」でいう「宝剣」
に当たる

と捉えるのです


オ 今此時ぞ天に抛

やーっと

最後の句

今此時ぞ天に抛
(いまこのときぞ てんになげうつ)

までたどり着きました



この句をどうみるかによって

ここまでの労作業(?)が

生きるかムダになるか

決まってしまう

といっても過言ではなく



その意味で


分水嶺(ぶんすいれい)


かもです




ではでは

お待たせしました

いよいよ

クライマックス!





自分なりの解釈は

次のとおりです
( ^)o(^ )


なーお

抛筌斎(ほうせんさい)の「抛」が
ここでも用いられてるところ


コレは

単なる偶然ではない
とみてます


今こそ

自身の命に代えて

悟り(「わび」の美意識・美学)の鋭さ(無類さ)を


「天」(天下人)に向けて


あるいは

それにとどまらず

万人・万端(ばんたん)に
あまねく行きわたるべく

投げうとう



との気概が込められてる




と解して締めくくる

コトにします(^.^)






以上あれコレ
みてきましたが

既に触れた
要点を踏まえ

現代語訳を次のとおり

まとめてみます
(●^o^●)


人生70年に至り


この躍動感!!




我が悟りの無類さは


祖先・諸仏いずれも

滅せしめるほど




悟りの精髄(美意識・美学)を

ひとたび浴びせようぞ





今まさに

身命(しんみょう)に代えて


「天」(天下人等)になげうつ時なのだ



なおなお

利休が辞世の句を詠むに
当たり

何を参考にしたか定説はない
ものの

13世紀の蜀(三国志)の時代における
成都の「韓利休」(禅僧)の遺偈に

以下の句があります



人生七十力囲希我
(人生70年 えい!やぁ!)

肉痩骨枯気未微 
(肉は痩せこけ骨は枯れ 気はいまだ弱々しい)

這裡咄提王宝剣 
(ここに王の宝剣を引っ提げ)

露呈仏祖共殺機 
(諸仏も祖先も この機に一気に殺そう)





いずれにしても


死期を悟った利休が

その場の感情にまかせて

半ば衝動的に書き殴ったりした
モノでないコトは


先人の句の引用の仕方
からみても

明らかと

いえそうです(^-^)


5 残された謎(ナゾ)

利休が詠んだ辞世の句を

自分なりに
解釈しましたけど



実のところ

まだナゾが残ってます



一見して
過激な表現ぶりで

憶測・誤解を生みそうな
韓利休の遺偈を

前半部分において


どうして

重ね合わせるように
詠んだのでしょうか




正直に
告白すると


当初の狙いは

現代語訳が諸説ある中で

ユニークな自説を独白する点に
あったんですけど


現代語訳の独見が済むや否や

今度は

先のナゾ(疑問点)に

ぶち当たって
しまいました(..)



めげずに
掘り下げてみます




まーず

韓利休との関係で

「利休」がかぶってるため

宗易を利休に改めた経緯から

探ってみると



町民(商人)の身分では

禁中(きんちゅう)茶会に
参内(さんだい)できないため

正親町(おおぎまち)天皇より
与えられた居士号(こじごう)が

「利休」

とのコト




そこで

「利休」の由来を調べてみると


途中までは

名利既に休す
(みょうりすでにきゅうす)

すなわーち

名誉・財産に執着しない

との意味合いで
理解されてましたが




現在では

利心休せよ

つまーり

才能におぼれず

老古錐(ろうこすい)

コレは

使い古して先の丸くなったキリ

のコトですけど

この境地を目指せ

と解するのが主流です





以上を踏まえて

当時の
利休の心情を推し量ると


自身の名(号)の出所(でどころ)を

強く意識しながら

巧みに
吹毛剣を連想させ

節目で号を構成した
「抛」を

再度用いつつ



明確に

「利心休せよ」との意味合いに

抗(あらが)ってます




利休の悟りの境地(宝剣)は

祖先・諸仏をも滅するほど

無類・無双の勢いなのです




そうすると

「天」とは

時の下人(秀吉)

のみならず


てか

むしろ

「利休」を賜った

皇・現人「」(あらひとがみ)に対し

祖仏を滅するほどの
鋭利な切っ先を向けた

との見方も



あながち
的外れではない

というのが

独見的な


ナゾ解き


でーす(;^ω^)





こうみるコトにより

わざわざ

前半に

「利休」の出所を重ね合わせた
意図が

あぶり出されるのです




天皇(その側近)は

町民出身の分際(ぶんざい)での
突出(とっしゅつ)を戒(いまし)め

クギを刺す趣旨で

「利休」を授けたのかもですが




利休の宝剣(境地)は

切っ先を
使い古して丸めつつ

矛(ホコ)を収める

どころか



より
強固かつ鋭利にしながら

放たれたのでした




なんたる


痛快さ!




ガチで

宗易(利休)


おそるべし!!


むろん

超絶リスペクト

確定です
( ^)o(^ )


6 まとめ

乱世の超大物である

信長・秀吉・家康

から

重用され

あるいは

一目も二目も
置かれるなど


存在感は
傑出(けっしゅつ)してます




一応

「将の将」の観点から
おさらいを試みると



同じような境遇(農民と商人の出身)から
成り上がるなど

互いに通じ合うモノを
感じつつ

黄金の表舞台に立つ
秀吉を

漆黒(しっこく)の裏方から支えた
利休



なおなお

どうでもいいコトですけど


この色彩のコントラストって

当ブログのホーム画面の背景色
(クリームイエローと黒)

と相通じるモノがあります


と言いたいところですが

もちろん
後付けでーす
(;^ω^)





話を戻します

秀吉と利休の間には

相通じ合うモノがあった
にもかかわらず


利休において

自身の信念(悟りの境地)に

妥協はあり得なかったのです




結局のところ

利休レベルになると


「将の将」との枠で
語ろうとしても

用意する枠(スケール)が
小さすぎて

無理ゲーとなって
しまいます





とにかく

ズ抜けて
奥深い


死に花


を咲かせてます



そして

今回(令和4年5月中旬現在)

運よく

心底(しんそこ)
愛(め)でるコトができました



願わくは

御褒美(ほうび)として

利休本人から

お茶でも

たててもらいたい
ものです



もちろん

無礼講・無作法で
(^^;)




最後に

短歌をどうぞ!


ちなみーに

一般に短歌では

必ずしも季語は必要ない
とされてます



と断りつつ

「残花」は

桜をイメージする

季語となってまーす(^<^)


宗易よ


責めてはならぬ


余人(よじん)をば




残花(ざんか)超絶


深意(しんい)なりせば


なーお

句の中で

「宗易(4音)」を使ってる点ですけど


もとより

「利休(3音)」でもよかったものの
(1音違いはどうにでもなりますから)


最期の「はなむけ」の句に

「利休」を用いるのは

なーんか

気が引けて・・・(..)


7 余韻

余力が残ってませんけど

気力を振り絞って
つぶやくと




武士にとって「名誉の死」である
切腹には


清く責任をとる
だけでなく

自ら
ハラを割(わ)るコトで

無実を訴えたり

汚名を除く

との
意味合いもあります




利休は

切腹命令を
あえて受けとめ

「花」(句)を添えつつ


見事に

腹黒さのないコトを

証明してみせたのです






表面的な華やかさを否定し

不足(質実)の美意識・美学を
求めて貫いた

利休の生きざまは



利休切腹の数年後に赦免された
利休の養子・少庵(しょうあん)と

その子・宗旦(そうたん)

親子に

引き継がれ




冒頭のとおり


わびさび」の
精神として

日本文化に

あまねく

解き放たれました
( ˘ω˘ )






ではでは

最後の・・・


えーっ

もしかして
まだあるのー

とのたまうアナタ!


気持ちは察しますが

「最後のさいご」に

もうひと掘りだけ
させてください



ここで
「ダメ」を押さないと


画竜点睛(ガリョウテンセイ)を欠く


コトに
なりかねないので(..)




当時

利休の辞世の句の深意を理解した
ヒトが


少なくとも
一人いた

と推察します




誰だと思いますか

そうそう
そのとおり!

切腹命令を下した張本人の
秀吉です



同じ
成り上がりモノで

「利休」居士号の「なれそめ」も
承知しており


加えて

頓智(とんち)の利く
秀吉のコトですから

句の深意を解し得た
とみてます



いやいや

解したどころか


快至極だった
宗易とは裏腹に

恨の極みだった


と理解します



大政所らへの手紙の件も

この脈絡で捉えるのが

よさそうです(‘_’)




本稿のオチが

文字どおり

「最後のさいご」に登場したため

順不同の感がありますけど



誤解なきよう念のため

「まとめ」のまとめを
させてください


辞世の句の最後の
「天に抛」(てんになげうつ)でいう

「天」とは

表向きは万人万端を指しますが

隠れた主役は次の人物と捉えてます


①「利休」の名付け親である天皇(神)


②逆心(ぎゃくしん)を疑った時の天下人



とにかく

チョーすごくないですか

個人的には
鳥肌モノです




利休は


句の深意を秀吉なら解する


と確信してたのです



この二人

常人(じょうじん)では
推し量れないような


表裏の関係性


を形作ってたんですネ
(●^o^●)


8 余談

当記事に関連するツイートを
挙げておきます



利休生誕500年を迎えるに当たり

ささやかながら

「はなむけ」になったなら

望外ですけど・・・


(‘;’)


9 追記

今回

待望の

「将の将」シリーズ・各論

第1弾が

スタートしました



今後も

三国志・太平洋戦争等
の登場人物を

ネタにした


独見的な記事が

続きます



とりあえず

次回の「将の将」シリーズは

(仮題)
【人間考・将の将】各論2:「軍神」が信じたモノって何でしょうか

の予定です



なおなーお

コレまで

限定特化記事を

月1回の割合で
投稿してきましたが


今後は

4か月に1回の投稿頻度(年計3回)に
変更します




なので

「将の将」シリーズ以外にも
限定特化記事がある

点を踏まえると


アタマ出しした前記記事が
日の目を見るのは

結構
先になりそうですネ



それまで

楽しみに
お待ちくださーい!
(^・^)



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投稿者: toshi0227(トシ・オウ・トウ・トウ・セブン)

都内マイホーム、妻子持ち、シニア層男性。法律職公務員。0型・サソリ座・トラ年。モットー「いまが一番!ここが一番!」。スローガン「時空を超えろ!」。趣味はテニス・ゴルフ・油絵等。定年退職が近づきつつあるため、社会との接点を確保して認知機能の低下を防ぎ、健康長寿を目指すべく、遅きに失した感はあるものの、思い切って「ユル・ヤワ」に「T.H.BLOG」を始めてみました。大海原を航海中ですが、よろしくお願いします。 ブログの公開表示名「toshi0227」は「トシ・オウ・トウ・トウ・セブン」と読みまーす(^^) スタエフ(音声配信)・インスタもやってます(^<^)

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